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神を探し求める(4)

神を探し求める(4)_a0142083_1614599.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして行われた、5月のオブラーテの集いの講和のつづきです。個人的な録音を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日、18日と6月2日の記事の続きです)

これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。

-詩編15編5節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その4》

私が従順であるための課題として、日常生活の義務を受け入れる訳です。つまり、職業上の義務、家庭における義務、度々それは煩わしいことや必要のないこと、その時点では誠に厄介な問題だったり、何かを要求し、邪魔立てする人が生活の中に現れるとか、そういうすべてのことです。

修道院でも、実際に、度々このようなタイプの従順を生きて来ました。以前によく話したのですが、私の長い修道生活で本当に難しいと感じた、重大な命令を直接受けたことが二回あります。30年近く修道院にいて、二回の命令は多すぎるとは言えません。しかし、もちろん私の生活は日常の義務でいっぱいです。

私は、あらゆる仕事に励んでいます。早朝に鐘が鳴れば、ベッドに留まることなく、起きなければなりません。これもすべて、私たちが従順に生きる、単純で謙遜な生活の形です。私たちが鐘の合図で仕事につき、いつも神に従順に生きようと思い起こす時、日常生活は貴重で価値あるものになります。

聖ベネディクトは、従順をどのように識別出来るか、その基準について書きました。つまり、「躊躇することのない従順」と単純に言っています。これは実際、とても良い印です。修道院で修練者を呼んで「ちょっと私のところへ来てくれないか」と言う時に、色々違いがあります。10秒以内に来る場合もあれば、15分待たなければならないこともあります。何かを頼むとすぐに「はい。喜んでやります」と仕事に向かう人もあれば、「そうですねぇ、後でそれをする時間があるかどうか様子を見ましょう」と言う人もいます。

「躊躇することのない従順」は、私たち皆の日常生活にも当てはまると思います。ものごとを先延ばしにするでしょうか、あるいは、小さな要求の中にも神の御旨と出会い、もしかすると内的な喜びも感じつつ「はい。致します」と言うでしょうか。

これが、修練期に吟味すべき第三の要素である、従順です。第四の要素は、これと大変似ており、従順と密接な関係にあります。聖ベネディクトはラテン語で obproprierと書いていますが、試練、不快なこと、と訳しましょう。難しい言葉かも知れません。これは、「自分の意思に反すること」です。つまりobは「反する」で、propriumは「独自の」ですから、「自らの属性に反すること」になります。

修練者が試練に対して熱心かどうか。この表現は、修道院において難しい歴史を歩みました。19世紀には、作為的な試練を乗り越えるように助けなければならない、と上長が考えることも度々ありました。つまり、修練者に、また時には他の修道者に対しても、必要以上にわざわざ生活を難しくしました。例えば、無意味な仕事をさせたり、あるいは、ある部屋が好きだと分かると、わざわざ別の部屋へ移動させたり、その人と関係が難しい兄弟と一緒に仕事をさせたり、まずい食事を与えたり。意識的に、まずい食事をです。

これは、19世紀から20世紀初頭のことです。私は、歯医者へ行った修道女から、こんな話を聞きました。その医者は、修道者が来たら鎮痛剤を渡さないというのです。今日では、このようなことはすべて無駄な事と考えています。聖ベネディクトは、作為的な試練を乗り越えなければならないとは、どこにも書いていません。

毎日の生活の中に、試練は十分にあります。わざわざ、まずく料理する必要はありません。それどころか、神の被造物をそのように扱うのは罪だと思います。また、一生懸命上手く料理しても、美味しくないと思う人が修道院には一人位いるものです。人生に不快なことは十分にありますから、わざわざ作り出す必要はありません。

多くの兄弟達は、いずれにしても難しく、不愉快なのですから、人為的にもっと疲れさせる必要はありません。そんなことをしなくても、その人が自分に反することを上手く、冷静に扱うことが出来るかどうか分かります。本当にこの生活が出来るか、この生活に召されているかを知る重要な印として、修練期に良く分かります。

最初に、これは従順と密接な関係があると言った訳が、もうお分かりでしょう。従順も試練と同じように、度々自分の意思に反することだからです。私は、ひとつの美しい例を挙げたいと思います。この例が、従順の良い例なのか、試練の例なのか分かりません。(つづく)
by hild_yam | 2013-06-17 00:13 | ベネディクト会オブラーテ | Comments(0)
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オルガニスト 山田早苗 Official Blog☆聖書の御言葉と写真で綴る日記


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