神を探し求める(2)
悪を避け、善を行い
平和を尋ね求め、追い求めよ。
-詩編34編15節-
《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その2》
私たちは、二つの面で神を探します。確かに、神は私たちに特別な転機を与えてくださり、引き上げてくださいます。同時にまた、日常生活の中にも神はおられます。神の御言葉の中に、秘跡において、日々神の愛と慈しみを感じる多くのしるしによって。「神を探し求める」とは、いったいどのような意味でしょうか。
「神は、常により偉大な者である」と聖イグナチオが言いました。神は、いつも私たちの期待以上の者ですし、私たちの可能性以上の者です。この意味で、神を探し求めることは、常に先へと進む道を辿ることであり、常により偉大になる神にさらに近づくことです。より大きな愛、より深い理解、あるいはより深い苦しみ。それらによって、神の偉大さの中に入ります。
「探す」という言葉の中には、神が私たちを絶えず御自分の方へと引き寄せる力によって増幅する力が、すでに潜んでいます。いつも何かを見つけますけれど、すべて見つけることは決して出来ません。若い修道士は、この道を歩み始めなければなりません。この道は目的地に到着することなく、最後まで道の途中であることを知っています。
新しく修道院へ来るすべての人々に、必ずしもこのように告げる訳ではありません。しかし、その人が実際にこのような道にいることを私たちは知っています。彼は常に先へ進もうとするでしようか、あるいは、ある日誓願を立てて修道院にどっしり座り、そこから出ないことを望むでしようか。これは7節の四つの要素の最初のものであり、また最も大切なポイントでしょう。
7節の第二のポイントは、神の業(礼拝)に熱意を示しているか、という点です。この表現には、また二つの興味深い要素があります。その一つは、もちろん礼拝です。現実に、礼拝がこの生活の特徴を形作る要素であることは、聖ベネディクトの戒律によって、また既に多くの皆さんがベネディクト会修道院の生活を体験して御存知でしょう。
聖オッティリエン修道院では、一日に5回聖堂へ行きます。礼拝に喜びを感じないならば、修道生活は難しいでしょう。「礼拝に喜びを感じられない」と言った修道者を私は二人知っています。そのうちの一人は、修道院を去って教区司祭になりました。もう一人は大変聖なる人で、彼は生涯の終わりまで忠実にこの犠牲を捧げ続けました。つまり、いつも礼拝に参加しました。私に「礼拝に喜びを感じられない」言ったのですが。この理由だけでも、彼は天国へ入ったに違いありません。
聖ベネディクトは、義務を自覚するように期待しただけでなく、内的喜びも待望したと思います。もしそうでなければ、間違った道であるはずです。礼拝に喜びを感じられないことに気づいたならば、ベネディクト会の生活を勧めるべきではないと私は思います。それは、いつも大変感激するという意味ではありません。これは、人間的でないと思います。誰でも疲れたり、欲求不満を感じたり、気を散らしたりします。
そこでこの熱意とは、その時の個人的気分に関わらず礼拝に忠実であることです。礼拝は修道生活において最も頻繁な要素です。例えば、私たちの修道院では日に5回、いくつかの修道院では7~8回あります。そこで、若い人々が本当に喜んで熱心に礼拝に参加する気があるかどうか、修練期間中に良く分かります。時間通り礼拝に参加出来るよう、仕事を終える努力をする人、あるいは「残念ながら、今日は仕事で礼拝に行かれない」と良い口実が出来てちょっと嬉しい人など。
聖ベネディクトの言う「熱意」について、一般的な話をしたいと思います。聖ベネディクトの戒律には、三種類の「熱意」が出て来ます。良い熱意、悪い熱意と修練者の熱意です。(つづく)