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カテゴリ:ベネディクト会オブラーテ( 6 )

神を探し求める(6)

a0142083_23134118.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして行われた、5月のオブラーテの集いの講和の最終回。個人的な録音を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日、18日と6月2日、17日、7月1日の記事の続きです)

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。
-ヨハネによる福音書12章36節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その6》

どれを買おうか、というような問題ではなく、結婚した方が良いか、修道院に入ろうか、どの仕事につこうか、と言う問題の場合です。この時に厄介なのは、自分で下さなければならない決断、自らの状態を外から冷静に眺めることが難しい、という点です。それでも、自分の力で外観を見極める三つの段階を聖イグナチオが挙げています。

第一に、あなたのことを知らない理性的な人が、この状況をどのように判断するか想像してみよう。聖イグナチオの方法では、霊的課題について想像すること、別の状況を空想することが大切になっています。別の中立的な視点、という第一の方法です。

第二に、あなたの生涯の終わりの時を想像してみよう。その時、あなたはどう決断したいか。目下の時間に関わるものから解放される試みとして、私は大変気に入っています。人生を終えて死ぬ時に、この決断が私の人生にどのような意味を持つのか、私はどのようにしたいか。利己的な要素だけで、決断に至ることがないように。

第三の方法、世の終わりに最後の審判において、どのように決断したらよかったと思うか想像してみよう。つまり、その決断がどのような意味を持つかを見る、より大きな枠組みが必要になります。

主観的判断は、つねに主観的なものですが、それを客観的なものと結び付ける試みです。客観的な誰か別の人、人生の終わりという客観的状態、神の被造物という客体として。聖ベネディクトは、聖イグナチオより900年前に生きていました。もちろん彼は、まだこの決断方法を知りませんでした。

しかし彼は聖イグナチオと同じように、人は決断する時に自由を生きると言うことを知っていました。これは、ひとつのパラドックスです。決断する時は、結びつき、束縛が始まる時でもあるのですが、その時同時に自由であることが証明されます。その時、結びつきによって自由が開花するのです。結婚もそうですし、修道院の誓願や誓約などの決断もそうです。

このような理解は大変古くからありますが、私たちの時代にはとても難しいことです。多くの人々は、決断しなくて良いことが自由だ、結びつかないことが自由だと考えています。可能性と自由を混同しています。沢山の戸口の前に立っていて、入ることが出来る戸口はひとつだけなので、どこにも入らないようなものです。

自由と結び付きのパラドックスは、おそらく愛によってのみ解決可能でしょう。このようにして、結びつきが自由と一致します。幸いにも、イエス・キリストが十字架を担われました。自由な決断によって、十字架に釘づけられました。従順と自由を現されました。
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by hild_yam | 2013-07-10 23:28 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(0)

神を探し求める(5)

a0142083_16125828.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして行われた、5月のオブラーテの集いの講和のつづきです。個人的な録音を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日、18日と6月2日、17日の記事の続きです)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。
-ヨハネの手紙Ⅰ 4章1節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その5》

私たちの修道会に、97歳の司祭がいます。フィリックス神父様です。彼が65歳の時、確かにもう老人で、聖オッティリエン修道院で大きな責任は負っていませんでした。その時、当時の大修道院長が、彼の部屋へ行きました。そして院長は彼に言いました。「フィリックス神父様、私たちがフィリピンに新しい修道院を作ろうとしていることを御存知ですね。あなたがフィリピンへ行く気持ちがあるかどうか、尋ねたいのですが」

それは、ゼロから始めなければならない新しい修道院で、言葉も全く違うし、気候も難しい、こういうすべてのことについて、フィリックス神父は何も言いませんでした。「はい、喜んで行きます、院長様」と、彼は単純に言いました。私たちは皆、感嘆しました。彼は、今もまだフィリピンに居ます。

以上が、7節について私が説明したかったことで、修練期に観察すべき4つの要素です。この他にも、勉強の授業や、実際に修道生活を身につけることなど、重要な要素が色々あります。しかし、この4つの要素がキーワードです。

この章から、もう一つのポイントを取り挙げましょう。前に聞いたように9節から、修練期間中に、修練者に三回戒律を読み聞かせると書いてあります。修練期の決まった時期に三回戒律が読まれ、そのたびに聞かれます。「あなたは、本当に続けたいですか」と。修練期の最後に尋ねるだけでなく、期間中に「これがその道です。本当に続けますか」と何度も確認します。つまり聖ベネディクトは、人々に対して修道院へ入るよう説得しようとはせず、むしろ逆に、入ることを思いとどまるように勧めます。

この章の最初の部分で、既にそれが明らかです。修道生活を求めて新たに来る者は、門の前で数日待たせるべきだ、と書いてあります。勧誘すべきではなく、むしろ最初に難しくします。それは、各自の自由意思を考慮したものと思います。「はい、私は続けます」あるいは「いいえ、これは違うと知りました」と自分自身で決めなければならない場面に、何度も直面させます。自ら決断することを大変重要視します。

これは中世初期には、当然のことではありませんでした。多くの人々は、両親によって修道院へ送られました。聖ベネディクトは「あなた自身が決めるべきだ」と繰り返し強調しています。これらの決断の最後に、誓願を立てるかどうか、という決定的な判断があります。

どのように、判断することが出来るでしょうか。キリスト教の伝統の中で、識別と決断について最も深い分析が、ロヨラの聖イグナチオによって成されました。聖ベネディクトではなく、聖イグナチオについて話すことが物議を醸すことにならないと良いのですが。キリスト教の霊性形成において、聖ベネディクトと聖イグナチオの伝統は、実際にどちらも大変重要だと思います。

聖イグナチオは、識別の過程について書いています。時には、祈りの中で疑う余地のない大きな内的確信をもって決断することもある、と彼は言っています。もし、この内的な確信がないならば、次に重要な問いかけをします。この場合は、その件にどのような良い点があり、また不利な点があるか、はっきり書き出して、冷静に判断しなければなりません。

時には、それでもまだ確信を持てないこともあります。その場合に、彼はまた別の方法を示しています。誠に深い人生の決断は自分自身でしなければならない、というのは大問題です。他の人に尋ねることは出来ません。少々助言を受けることは出来ますが、決断は自分でしなければなりません。(つづく)
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by hild_yam | 2013-07-01 16:30 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(0)

神を探し求める(4)

a0142083_1614599.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして行われた、5月のオブラーテの集いの講和のつづきです。個人的な録音を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日、18日と6月2日の記事の続きです)

これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。

-詩編15編5節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その4》

私が従順であるための課題として、日常生活の義務を受け入れる訳です。つまり、職業上の義務、家庭における義務、度々それは煩わしいことや必要のないこと、その時点では誠に厄介な問題だったり、何かを要求し、邪魔立てする人が生活の中に現れるとか、そういうすべてのことです。

修道院でも、実際に、度々このようなタイプの従順を生きて来ました。以前によく話したのですが、私の長い修道生活で本当に難しいと感じた、重大な命令を直接受けたことが二回あります。30年近く修道院にいて、二回の命令は多すぎるとは言えません。しかし、もちろん私の生活は日常の義務でいっぱいです。

私は、あらゆる仕事に励んでいます。早朝に鐘が鳴れば、ベッドに留まることなく、起きなければなりません。これもすべて、私たちが従順に生きる、単純で謙遜な生活の形です。私たちが鐘の合図で仕事につき、いつも神に従順に生きようと思い起こす時、日常生活は貴重で価値あるものになります。

聖ベネディクトは、従順をどのように識別出来るか、その基準について書きました。つまり、「躊躇することのない従順」と単純に言っています。これは実際、とても良い印です。修道院で修練者を呼んで「ちょっと私のところへ来てくれないか」と言う時に、色々違いがあります。10秒以内に来る場合もあれば、15分待たなければならないこともあります。何かを頼むとすぐに「はい。喜んでやります」と仕事に向かう人もあれば、「そうですねぇ、後でそれをする時間があるかどうか様子を見ましょう」と言う人もいます。

「躊躇することのない従順」は、私たち皆の日常生活にも当てはまると思います。ものごとを先延ばしにするでしょうか、あるいは、小さな要求の中にも神の御旨と出会い、もしかすると内的な喜びも感じつつ「はい。致します」と言うでしょうか。

これが、修練期に吟味すべき第三の要素である、従順です。第四の要素は、これと大変似ており、従順と密接な関係にあります。聖ベネディクトはラテン語で obproprierと書いていますが、試練、不快なこと、と訳しましょう。難しい言葉かも知れません。これは、「自分の意思に反すること」です。つまりobは「反する」で、propriumは「独自の」ですから、「自らの属性に反すること」になります。

修練者が試練に対して熱心かどうか。この表現は、修道院において難しい歴史を歩みました。19世紀には、作為的な試練を乗り越えるように助けなければならない、と上長が考えることも度々ありました。つまり、修練者に、また時には他の修道者に対しても、必要以上にわざわざ生活を難しくしました。例えば、無意味な仕事をさせたり、あるいは、ある部屋が好きだと分かると、わざわざ別の部屋へ移動させたり、その人と関係が難しい兄弟と一緒に仕事をさせたり、まずい食事を与えたり。意識的に、まずい食事をです。

これは、19世紀から20世紀初頭のことです。私は、歯医者へ行った修道女から、こんな話を聞きました。その医者は、修道者が来たら鎮痛剤を渡さないというのです。今日では、このようなことはすべて無駄な事と考えています。聖ベネディクトは、作為的な試練を乗り越えなければならないとは、どこにも書いていません。

毎日の生活の中に、試練は十分にあります。わざわざ、まずく料理する必要はありません。それどころか、神の被造物をそのように扱うのは罪だと思います。また、一生懸命上手く料理しても、美味しくないと思う人が修道院には一人位いるものです。人生に不快なことは十分にありますから、わざわざ作り出す必要はありません。

多くの兄弟達は、いずれにしても難しく、不愉快なのですから、人為的にもっと疲れさせる必要はありません。そんなことをしなくても、その人が自分に反することを上手く、冷静に扱うことが出来るかどうか分かります。本当にこの生活が出来るか、この生活に召されているかを知る重要な印として、修練期に良く分かります。

最初に、これは従順と密接な関係があると言った訳が、もうお分かりでしょう。従順も試練と同じように、度々自分の意思に反することだからです。私は、ひとつの美しい例を挙げたいと思います。この例が、従順の良い例なのか、試練の例なのか分かりません。(つづく)
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by hild_yam | 2013-06-17 00:13 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(0)

神を探し求める(3)

a0142083_1639319.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして行われた、5月のオブラーテの集いの講和のつづきです。個人的な録音を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日と18日の記事の続きです)

「耳ある者は、〝霊〟が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」
-ヨハネの黙示録2章7節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その3》

聖ベネディクトは良い熱意について度々語り、戒律の終わりには72章全体でこれについて述べています。実際この章は、最も大切なことを纏めた総まとめです。重要なのは、愛を育む熱意であることです。悪い熱意についても聖ベネディクトは言及していますが、今ここで詳しく取り上げるつもりはありません。

聖ベネディクトは、いわゆる修練者の熱意についても触れています。聖ベネディクトも知っており、また修練長なら誰でも知っているように、修練者の熱意はある種の賜物ですが、それについて喜び過ぎない方が良いでしょう。修練者の熱意は初めの熱意であり、最初に燃える心です。修練者の熱意は、ほとんどの場合、修練期だけにあり、修練期の経過とともに次第に消えて行きます。

時と共に深まる熱意は、忠実と関連しています。修練者の熱意は燃える恋のようなもので、誠の熱意は夫婦が互いに持つべき愛のようなものです。聖ベネディクトの教えは、両者をはっきり区別しています。修練長時代に私も、前者のタイプの熱意を度々体験しました。今、全く新しい生活が始まる、古い罪と悪を捨て去ることが出来て、今、大いなる完全な生活に入る、と若い人々は考えて、他の人々にも説明します。しかし多くの場合、この熱意の炎は長持ちしません。

このような熱意に対しては、少し疑った方が良いです。大切なのは、続くものです。修道院の祈りの時間だけでなく、その他に毎日2~3時間聖堂へ行きたかった修練者を知っています。彼は数週間それを行い、そして辞めました。その後、その人を修道院から出さなければなりませんでした。お金を盗んだからです。聖ベネディクトは、この最初の熱意を信用しませんでした。その時の感情ではなく、長続きする、生活の中で形作られる愛が大切です。

7節における第三の要素は、従順です。つまり、修練者は従順に対する熱意を修練期に試されます。従順は、聖ベネディクトの戒律全体のキーワードです。従順という言葉は、ラテン語でもドイツ語でも「聞く」という言葉から来ています。戒律の最初の言葉を覚えていますか。「聞け」という言葉です。聖ベネディクトの人間学は、まさに従順の人間学です。

人間は本来、神に対して開かれた、聞く関係を持っています。アダムの罪によって、人はこの関係を失いました。アダムは不従順で、私たちの中に不従順をもたらしました。人生の目的は、再び神に立ち帰ることです。それは、私たちが従順である時に実現します。自ら従順であったイエス・キリストを通して、私たちはこれを学びました。フィリピの信徒への手紙に「死に至るまで従順でした」と書いてあります。自ら従順であったイエスに似た者となることによって、私たちは父へと至ります。これが聖ベネディクトの人間学であり、神学です。従順がキーワードです。そしてこのキーワード、徳のキーワードは、もちろん既に修練期に試されます。ある人が本当に従順に生きたいかどうか、修道院でこの人生の目的に到達することが出来るかどうか。

聖ベネディクトは色々な種類の従順を知っていました。彼はもちろん修道院長に対する従順について書いています。また、お互い同士の従順についても語っています。それは階級によらず、兄弟に対する従順です。聖ベネディクトに従う生活のこの要素をオブラーテとして実現することは、難しいと感じるのではないでしょうか。修道院長は遠く離れていますし、兄弟達に会うのも週に一度、あるいは月に一度です。何年か前にこの場所で、この問題について話しましたが覚えている方があるでしょうか。院長に対する従順や兄弟に対する従順の他に、自らの日常生活に対する従順というものもあります。(つづく)
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by hild_yam | 2013-06-02 17:04 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(2)

神を探し求める(2)

a0142083_165127100.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして、オブラーテの集いがありました。個人的に録音した講和を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。(5月13日の記事の続きです)

悪を避け、善を行い
平和を尋ね求め、追い求めよ。

-詩編34編15節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その2》

私たちは、二つの面で神を探します。確かに、神は私たちに特別な転機を与えてくださり、引き上げてくださいます。同時にまた、日常生活の中にも神はおられます。神の御言葉の中に、秘跡において、日々神の愛と慈しみを感じる多くのしるしによって。「神を探し求める」とは、いったいどのような意味でしょうか。

「神は、常により偉大な者である」と聖イグナチオが言いました。神は、いつも私たちの期待以上の者ですし、私たちの可能性以上の者です。この意味で、神を探し求めることは、常に先へと進む道を辿ることであり、常により偉大になる神にさらに近づくことです。より大きな愛、より深い理解、あるいはより深い苦しみ。それらによって、神の偉大さの中に入ります。

「探す」という言葉の中には、神が私たちを絶えず御自分の方へと引き寄せる力によって増幅する力が、すでに潜んでいます。いつも何かを見つけますけれど、すべて見つけることは決して出来ません。若い修道士は、この道を歩み始めなければなりません。この道は目的地に到着することなく、最後まで道の途中であることを知っています。

新しく修道院へ来るすべての人々に、必ずしもこのように告げる訳ではありません。しかし、その人が実際にこのような道にいることを私たちは知っています。彼は常に先へ進もうとするでしようか、あるいは、ある日誓願を立てて修道院にどっしり座り、そこから出ないことを望むでしようか。これは7節の四つの要素の最初のものであり、また最も大切なポイントでしょう。

7節の第二のポイントは、神の業(礼拝)に熱意を示しているか、という点です。この表現には、また二つの興味深い要素があります。その一つは、もちろん礼拝です。現実に、礼拝がこの生活の特徴を形作る要素であることは、聖ベネディクトの戒律によって、また既に多くの皆さんがベネディクト会修道院の生活を体験して御存知でしょう。

聖オッティリエン修道院では、一日に5回聖堂へ行きます。礼拝に喜びを感じないならば、修道生活は難しいでしょう。「礼拝に喜びを感じられない」と言った修道者を私は二人知っています。そのうちの一人は、修道院を去って教区司祭になりました。もう一人は大変聖なる人で、彼は生涯の終わりまで忠実にこの犠牲を捧げ続けました。つまり、いつも礼拝に参加しました。私に「礼拝に喜びを感じられない」言ったのですが。この理由だけでも、彼は天国へ入ったに違いありません。

聖ベネディクトは、義務を自覚するように期待しただけでなく、内的喜びも待望したと思います。もしそうでなければ、間違った道であるはずです。礼拝に喜びを感じられないことに気づいたならば、ベネディクト会の生活を勧めるべきではないと私は思います。それは、いつも大変感激するという意味ではありません。これは、人間的でないと思います。誰でも疲れたり、欲求不満を感じたり、気を散らしたりします。

そこでこの熱意とは、その時の個人的気分に関わらず礼拝に忠実であることです。礼拝は修道生活において最も頻繁な要素です。例えば、私たちの修道院では日に5回、いくつかの修道院では7~8回あります。そこで、若い人々が本当に喜んで熱心に礼拝に参加する気があるかどうか、修練期間中に良く分かります。時間通り礼拝に参加出来るよう、仕事を終える努力をする人、あるいは「残念ながら、今日は仕事で礼拝に行かれない」と良い口実が出来てちょっと嬉しい人など。

聖ベネディクトの言う「熱意」について、一般的な話をしたいと思います。聖ベネディクトの戒律には、三種類の「熱意」が出て来ます。良い熱意、悪い熱意と修練者の熱意です。(つづく)
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by hild_yam | 2013-05-18 16:48 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(0)

神を探し求める(1)

a0142083_14171877.jpgドイツの聖オッティリエン修道院からエレミアス神父様をお招きして、オブラーテの集いがありました。奉献準備のために、神父様は修練についてお話し下さいました。個人的に録音した講和を自分自身の勉強のために、個人的に翻訳しました。公式のものではありませんが、参加出来なかった兄弟姉妹方のお役に立てれば幸いです。

子らよ、わたしに聞き従え。
主を畏れることを教えよう。

-詩編34編12節-

《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その1》

聖ベネディクトの時代、修練期は目新しいものでした。もっと古い修道院の伝統では、修練期について定められていなかったり、あったとしても数日、数週間程度でした。聖ベネディクトは、修練期の構成をしっかり定めようとしました。1年間という時を定め、他の修道者と別の部屋を定め、特別の長上、つまり修練長の下で修練期を過ごします。聖ベネディクトは、「戒律」にこれらの基本について詳しく書いています。最も重要な部分は、58章に書かれています。
(ここで、聖ベネディクトの戒律58章1~16節が読まれる)

今聞いた部分だけでも、これについて一週間話が出来るくらい多くのことが含まれています。まず、この章の中心と思われる、7節を取り上げましょう。7節には修練者が特に求めるべき四つの事が書かれており、これはその人がこの道に相応しいかどうかの判断基準でもあります。「そして、修練者が神を本心から求めているか、また神の業、服従、修練に対して熱意を示しているかを良く見守らなければなりません(戒律58章7節)」

ここで第一の点は、「神を本心から求めているか」ということです。まず、「求める」という動詞から始めましょう。戒律に従って生きようとする修道者は、探し求める者である、という考えです。既にすべて見出した人ではなく、道の途上にいる者です。この考えは修道者だけに特有ではなく、またキリスト者に特有のものでもなく、様々な宗教に見られると思います。探し求める者とは、既にすべて知っている、何でも出来る、万事OKと、どっしり腰をおろしている状態ではありません。むしろ、その反対です。

実際、これは度々確認の基準になります。私自身が長年、若い人々の養成に携わった経験では、修道院にやって来て、「私は、もう既にすべて知っています」「私は、既に見つけました」と言う人々がいます。探し求めるとは、心の中に空の場所を持っていること、何かを必要としていることです。しかし、修練者は「何かあるもの」、例えば幸せや安心立命、新しい故郷などを求めるべきではありません。

聖ベネディクトは、「心から神を求めよ」と書いています。つまり、神が中心です。聖ベネディクトは、「誠に神を探し求める」と特に強調しています。まずこれは、きわめてはっきりとした意味を持っています。実際に、神を求めるのではなく、何か別のものを求めて修道院に来る若者たちがいます。このような二次的目的は、修道院ばかりでなくオブラーテにもあり得るでしょう。孤独から逃れるために共同体を求める、確かな生活秩序を求める、また大きな修道院では影響力や偉大な任務を求めることもあり得ます。物質的な安心を求めることもあり得ます。

「なぜここに来たのか」「本当の目的は何か」をはっきりさせるために、修練期は役立ちます。探し求める方向が、本当に神に向かっていることを修練期に感じられなければなりません。これはつまり、他の要素が優先されないことを意味します。他の要素も、すべて悪い訳ではありません。その人の決断を助ける動機であるかも知れません。私自信も修道院に入った時、やはり規律や共同体を求めていたと思います。しかし、それは最も大切なことではあり得ません。そうでなければ、正しく機能しません。共同体を求めるならば、ボーリングクラブの方が良いでしょう。「誠に神を探し求める」という言葉には、明らかな意味があります。それは、深い意味です。「神を探し求める」とは、どういう意味でしようか。(つづく)
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by hild_yam | 2013-05-13 14:07 | ベネディクト会オブラーテ | Trackback | Comments(0)
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オルガニスト 山田早苗 Official Blog☆聖書の御言葉と写真で綴る日記


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