神を探し求める(5)
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。
-ヨハネの手紙Ⅰ 4章1節-
《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その5》
私たちの修道会に、97歳の司祭がいます。フィリックス神父様です。彼が65歳の時、確かにもう老人で、聖オッティリエン修道院で大きな責任は負っていませんでした。その時、当時の大修道院長が、彼の部屋へ行きました。そして院長は彼に言いました。「フィリックス神父様、私たちがフィリピンに新しい修道院を作ろうとしていることを御存知ですね。あなたがフィリピンへ行く気持ちがあるかどうか、尋ねたいのですが」
それは、ゼロから始めなければならない新しい修道院で、言葉も全く違うし、気候も難しい、こういうすべてのことについて、フィリックス神父は何も言いませんでした。「はい、喜んで行きます、院長様」と、彼は単純に言いました。私たちは皆、感嘆しました。彼は、今もまだフィリピンに居ます。
以上が、7節について私が説明したかったことで、修練期に観察すべき4つの要素です。この他にも、勉強の授業や、実際に修道生活を身につけることなど、重要な要素が色々あります。しかし、この4つの要素がキーワードです。
この章から、もう一つのポイントを取り挙げましょう。前に聞いたように9節から、修練期間中に、修練者に三回戒律を読み聞かせると書いてあります。修練期の決まった時期に三回戒律が読まれ、そのたびに聞かれます。「あなたは、本当に続けたいですか」と。修練期の最後に尋ねるだけでなく、期間中に「これがその道です。本当に続けますか」と何度も確認します。つまり聖ベネディクトは、人々に対して修道院へ入るよう説得しようとはせず、むしろ逆に、入ることを思いとどまるように勧めます。
この章の最初の部分で、既にそれが明らかです。修道生活を求めて新たに来る者は、門の前で数日待たせるべきだ、と書いてあります。勧誘すべきではなく、むしろ最初に難しくします。それは、各自の自由意思を考慮したものと思います。「はい、私は続けます」あるいは「いいえ、これは違うと知りました」と自分自身で決めなければならない場面に、何度も直面させます。自ら決断することを大変重要視します。
これは中世初期には、当然のことではありませんでした。多くの人々は、両親によって修道院へ送られました。聖ベネディクトは「あなた自身が決めるべきだ」と繰り返し強調しています。これらの決断の最後に、誓願を立てるかどうか、という決定的な判断があります。
どのように、判断することが出来るでしょうか。キリスト教の伝統の中で、識別と決断について最も深い分析が、ロヨラの聖イグナチオによって成されました。聖ベネディクトではなく、聖イグナチオについて話すことが物議を醸すことにならないと良いのですが。キリスト教の霊性形成において、聖ベネディクトと聖イグナチオの伝統は、実際にどちらも大変重要だと思います。
聖イグナチオは、識別の過程について書いています。時には、祈りの中で疑う余地のない大きな内的確信をもって決断することもある、と彼は言っています。もし、この内的な確信がないならば、次に重要な問いかけをします。この場合は、その件にどのような良い点があり、また不利な点があるか、はっきり書き出して、冷静に判断しなければなりません。
時には、それでもまだ確信を持てないこともあります。その場合に、彼はまた別の方法を示しています。誠に深い人生の決断は自分自身でしなければならない、というのは大問題です。他の人に尋ねることは出来ません。少々助言を受けることは出来ますが、決断は自分でしなければなりません。(つづく)