神を探し求める(1)
子らよ、わたしに聞き従え。
主を畏れることを教えよう。
-詩編34編12節-
《5月11日オブラーテの集いにおける、エレミアス神父様の講和~修練について~その1》
聖ベネディクトの時代、修練期は目新しいものでした。もっと古い修道院の伝統では、修練期について定められていなかったり、あったとしても数日、数週間程度でした。聖ベネディクトは、修練期の構成をしっかり定めようとしました。1年間という時を定め、他の修道者と別の部屋を定め、特別の長上、つまり修練長の下で修練期を過ごします。聖ベネディクトは、「戒律」にこれらの基本について詳しく書いています。最も重要な部分は、58章に書かれています。
(ここで、聖ベネディクトの戒律58章1~16節が読まれる)
今聞いた部分だけでも、これについて一週間話が出来るくらい多くのことが含まれています。まず、この章の中心と思われる、7節を取り上げましょう。7節には修練者が特に求めるべき四つの事が書かれており、これはその人がこの道に相応しいかどうかの判断基準でもあります。「そして、修練者が神を本心から求めているか、また神の業、服従、修練に対して熱意を示しているかを良く見守らなければなりません(戒律58章7節)」
ここで第一の点は、「神を本心から求めているか」ということです。まず、「求める」という動詞から始めましょう。戒律に従って生きようとする修道者は、探し求める者である、という考えです。既にすべて見出した人ではなく、道の途上にいる者です。この考えは修道者だけに特有ではなく、またキリスト者に特有のものでもなく、様々な宗教に見られると思います。探し求める者とは、既にすべて知っている、何でも出来る、万事OKと、どっしり腰をおろしている状態ではありません。むしろ、その反対です。
実際、これは度々確認の基準になります。私自身が長年、若い人々の養成に携わった経験では、修道院にやって来て、「私は、もう既にすべて知っています」「私は、既に見つけました」と言う人々がいます。探し求めるとは、心の中に空の場所を持っていること、何かを必要としていることです。しかし、修練者は「何かあるもの」、例えば幸せや安心立命、新しい故郷などを求めるべきではありません。
聖ベネディクトは、「心から神を求めよ」と書いています。つまり、神が中心です。聖ベネディクトは、「誠に神を探し求める」と特に強調しています。まずこれは、きわめてはっきりとした意味を持っています。実際に、神を求めるのではなく、何か別のものを求めて修道院に来る若者たちがいます。このような二次的目的は、修道院ばかりでなくオブラーテにもあり得るでしょう。孤独から逃れるために共同体を求める、確かな生活秩序を求める、また大きな修道院では影響力や偉大な任務を求めることもあり得ます。物質的な安心を求めることもあり得ます。
「なぜここに来たのか」「本当の目的は何か」をはっきりさせるために、修練期は役立ちます。探し求める方向が、本当に神に向かっていることを修練期に感じられなければなりません。これはつまり、他の要素が優先されないことを意味します。他の要素も、すべて悪い訳ではありません。その人の決断を助ける動機であるかも知れません。私自信も修道院に入った時、やはり規律や共同体を求めていたと思います。しかし、それは最も大切なことではあり得ません。そうでなければ、正しく機能しません。共同体を求めるならば、ボーリングクラブの方が良いでしょう。「誠に神を探し求める」という言葉には、明らかな意味があります。それは、深い意味です。「神を探し求める」とは、どういう意味でしようか。(つづく)